このお話は2017年(平成29年)3月から2018年(平成30年)1月に経験した過去の出来事。
しかし、生きていく上で決して忘れてはいけないことだ。
忘備録として記録することにした。
1/26.父が亡くなった
1月26日金曜日、16時電話が鳴った。おばからの電話だ。
特養から「父が肩で息をしている状態で、話し掛けても返事がない。危ないと思う。」と連絡があったとの事。
その1時間後…
再び、おばから電話があり、
「父が亡くなった。」と淡々と告げられた。
一瞬なのだな。と思った。
病院から特養に移動してたった10日目の事。だけど、
生前から父が望んでいた場所での看取りだった事が救いだ。
僕の障害は重くなり両親は大きな喧嘩をした。
それから父が孤独になっていた。僕とも冷えた関係が続いた。
それでも毎週火曜日に病院に顔を見せてくれた父。
僕が病院を退院し、在宅生活を選んだ事を応援してくれた父。
毎週当たり前のように、四日市から津市まで通ってくれた父。
入院した時、引っ越しの時、真っ先に駆けつけ手伝ってくれた父。
自立、自立と一人暮らしを始めても、父の状態が悪く入院していても、やっぱり心の寄りどころとしている自分がいる。もうすぐ50才なるけど、親離れ出来ない障害者。
人間の生命は永遠じゃないと、覚悟はしていたけれど、
やっぱり亡くなるのはさみしい。
弟のことはどうしたらよかったんだろうか
最後に言った「キャラメルが食べたい」って簡単な希望だった。
自分って何やってるんだろう。
涙が溢れ出て、止まらない。
01/27.通夜式
朝から、栄養、洗面、着替え、備品の準備等を済ませ、
長男として、家族代表として、できる限り参加するため、足早に葬儀場に向かった。
葬儀の決定事項は、叔母が決断してくれた。
自分で決めた事は
母親への連絡と遺影写真、装束、通夜、葬儀の挨拶ぐらい
遺影写真は当時所属していたシルバー人材センターから、四日市祭りに参加した時の写真にした。今思えば、あの時、応援に行って良かった。写真を撮っておいて良かった。
3時から湯灌、納棺が始まった。
子供の時は、怒られてばかりで、怒ってる顔しか記憶にない。しかし、今の父の顔は、優しく穏やかに今にも喋りそう。
柩に入ると車イスから顔は見られないので、しっかりと見届けた。
夜7時の通夜まで約3時間
親族は私の体調を心配している。確かに疲れも溜まっている。栄養剤の準備不足や、明日の葬儀の事もあるが、最後まで参加する事を優先した。
親族、いとこが集まってきた。30年ぶりの再会だ。
それぞれに家族を持ち、生活や環境は上向きに変化している。
変わらない自分はもどかしい。
通夜式が始まった。
お経の最中、遺影を見て、思いを巡らせた
焼香は母と一緒に柩の前で真似事だけ、でも、気持ちはしっかり届いたと思う。
僧侶は命について色々とお話した。でも、やっぱり亡くなるのは寂しい。
挨拶は胸が込み上げてきて、例文を読むのが精一杯。
その後、参列して頂いた方と話したかったけど、明朝の葬儀にも参加したかったため、足早に帰路についた。
01/28.葬儀
自宅に帰ってから、片付けとできる限り準備をし、眠りについた。
朝は5時半に起きて、葬儀に向かった。葬式には、5分遅れたがなんとか到着。
位牌を胸に霊柩車まで歩いた。
クラクションと共に父が出発した。涙が止まらない
私は火葬場への移動と体力の問題で、ここで最後の別れとなった。
礼服、焼香、個別の挨拶、火葬場の事、全てに思うようにはいかない。
障害ってのは嫌だ。
それでも、出席出来た事は在宅ならではだ。
ヘルパーの方々にも、ただただ感謝。
この日をきっかけにしっかりと生きていきたい
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